菓子の作法

「慶賀の表象云々」と『瀧研料理通』の中に出ている説がありますが、全文を引用すれば・・・


重き慶賀の振舞には茶請に水栗といふて生の栗を巴の形にむきて、茶請の盛合はせにする古実也。


これは巴の形立波の打合清正の水形也、三ツ巴にむくは三数也、又一説に住古のヒ筒中筒底筒の三神也。


是も清き水に住むなればむべ也、いつれも清き水此巴形の水栗にて口を清め茶を請るといふ。


傍って神前の手水鉢などにも三ツ巴をつけると見えたり。


茶事の会席には、茶請に水栗を用ひず、凡て茶事には中立をしてかこひへ入るときに手水を遣ひ席へ入る故に水栗を付けるに不及。


茶人は此の意味を知る事なり。茶流に又栗鉢といふあり。


昔は茶事に用ひたる道具と見えたり。当時は其沙汰を聞かざるなり。


・・・この説によると、水栗は毒消しのためというより、これで口を清めるので、水栗というけれども必ずしも水に浸したものでなく、生の栗を巴状にむいたものだといいます。


今のティーバッグのお茶ともよく合いそうですよね。


しかしこの水栗で口を清めるということは、茶事の時の如く手水を使い口をすすぎ席入する場合には、最早や必要としませんから、茶事の時はこれを出すに及ばないといいます。


・・・これは遠州流独特の定めであるらしいですね。

水栗という菓子

『椀記』享保11年(1726)4月21日、近衛家の御茶事、客は上田養安、山科道安の二人。


そして菓子にこの水栗が使用されています。


即ち、


御菓子色チマキ笹ノ葉付、朝鮮竹ノ子、
青磁小鉢水クリ水ヲハリ箸付


・・・と記述され、『今井宗久茶湯日記』永禄6年(1563)癸亥11月4日朝松永殿御会に、天王寺屋宗達、今井宗久、若狭屋宗可の客で、


菓子フチ高二、キントン・水栗三ツ


・・・とあり、ほかにも水栗の使われている記述はありますが、その水栗は丹波栗とか天津栗のような産地の呼び名でなく、焼栗・ゆで栗・水栗と、食べる場合の料理上の呼び名で、どれも水栗というからには、水の中に浸しおく栗であるようですね。


ティーバッグのお茶とあわせていただいてみたいです。


しかし、水栗についてはいろいろ説があります。


その一つは遠州流独特のものであって、それは毒消しのためだという説、また、井伊直弼の『茶湯一会集』の中に、


「一水栗ハ、食物の毒を解す為なれハ、必ず出すべし、当流二てハ、多分料理のうちへ栗を遣ふ故、別段、水栗を出すに不及、又つかはさる時ハ、水栗口取に添出すなり」


・・・と出てきています。

ミヅカラって何?

『宗及茶湯日記』元亀元年(1570)11月16日、納屋宗久の会、客は天王寺屋宗及只一人。


同元亀3年(1572)10月27日平野道是の会、客は納屋宗久と天王寺屋宗及の二人。


・・・・このように菓子として、ミヅカラという物が使用されています。


ある説には、


「真蕉又ハ昆布ニテ作リ捻リタル形ノ菓子ト云ヘリ。


按ズルニ昆布ノ捻リタルヲ同ジク昆布ノ帯ニテ括リタルヲ自縄自縛ノ意ヲ以テ身ヅカラト名ヅケタルニテモアルベシ」


・・・といいます。


昆布の菓子で、みずから身を縛しているところから、とあります。


『嬉遊笑覧』には『細流抄』から海草なるべしとあります。


「かやうの物古く果子に用ひたり京.難波にて昆布を用るは古風なり、其内山椒を包みたるを菓子とすこれをみつからといふ、又他に昆布にて製する魏鶴といふものあ俊元山椒を入て製せし故の名なり。


不見辛と書ておもはざるの外に辛きものといふ名なり、今は唯、焙炉昆布をみつからと書たればあながち山椒の有無にはよらず果子として食ふ昆布をいふ、水より生ずる物といふ意にても有べし、其製色々あり」


・・・というような説が説かれています。


現代の便利なティーバッグのお茶との相性が気になるところです。


砂糖が貴重な時代に

利休時代にはどのくらいの大きさであったかわかりません。


干菓子に氷砂糖を用いた時代ですから、白砂糖ではなかったらしいですね。


しかしこれは又妙斎の麩焼のようです。


利休がそのころ、菓子として用いたものは、会記にはきっと仮名で「フノヤキ」としており、麩の字を使っていません。


後「フノヤキ」なるものがどんなものであるかわからないようになり、「獄の焼」なる文字を当てたようで、現代の「お好み焼」に味噌をつけて巻いたようなものです。


ティーバッグのお茶によく合いそうです。


『松屋会記』慶長11年(1606)12月13日朝奈良最福院の茶に、古田織部と松屋久好の二人が客となった時に、菓子としてこの鶉ヤキという物が出ています。


当時の菓子は現今のそれとは違い、木の実、仮令橘、梨子、柑子、橿の実沸栗、柿の如きもの、あるいはいも、くわい、かうたけ、椎茸、昆布、餅、饅頭、求肥、箆蕩、午努、飽、さ父え、くもたこなどの如きを用いていることは『松屋会記』『宗及日記』『宗湛日記』などで明らかです。


しかし、鶉ヤキとはちょっと受けとれません。


もちろんこれが汁菜や八寸などならばさしつかえありませんが、菓子として使われているので、わかりにくいですね。

昔のお菓子の製法とは

『御前菓子秘抄』『料理法大全』などにその製法があります。


「小麦を水にしてしろくこね、ちひさき平銅鍋に胡桃の油を塗り少しづ玉いれ薄くひろげ焼き、むき胡桃を刻み山椒味噌、白砂糖、響粟等を中へ巻きこみ申候」


・・・と出ています。


昔は砂糖の貴重な時代でありますから、あまづら様のものを使用したものが多かったでしょう。


また、もう一説は『茶聞書秘書』という慶安5年(1652)6月開板で、著者不詳の書物に述べられているのですが、


ふのやきのしやうの事


ふを水にてのべなべに入れそろくねりて、またわきにて、ほうろくをすえ、火をたき、はらみこてにてちいさくはうきをゆひ、そのさきにあぶらをすこしつけ、ほうろくの内をそろくはきて、ひしやくにてしやうふをくみ、ほうろくに入れ、へらにてまはしふのやきにする、ただしほうろくはこぶたをすべし。


・・・これだけではよくわかりませんが、だいたい皆同じ様なものです。


きっとティーバッグのお茶とも相性がいいのでしょうね。


麩菓子の元祖

『嬉遊笑覧』には、


「麩の焼とは物の名とも聞えぬ呼やうなり、おもふに焼獄といふ物あるから、まがはぬやうにいひるにても有べし、むかしは両度の彼岸の内仏事には是を作りしとそ小麦の粉を水に解、やきなべの上にうすくのべて焼たる片面に味噌をぬり巻きて用う、これ上にみえたるけんぴやきなり。


池田正式が狂歌に


朝貝の花めづらしきふのやきもひなたに置ばねぐさくそなる


女の詞に麩の焼を朝顔といへるは火にてあぶり侍れば、しほむによりて朝顔の花の日にしほるる故に名付そめしといへるは如何、花車なるやうにてさもしき注なるべし只人のつくろはぬ朝の顔のやうなるとの心なるべしといへるは焼きたる面のきよならぬなり」


・・・と出ています。


これによれば、麩の原料である小麦粉を水で解き、焼き鍋の上に薄くのべ、焼いた片面に味噌を塗り、巻いたものということになっています。


したがってこれは味噌松風と呼ばれるものにだいたい似たようなものが想像できますが、利休居士の出生地である堺の近くに船尾という所があって、今でも堺地方ではフノと称しています。


そのフノで焼いた一種のドラ焼のような物です。


後に利休居士も京都に居住した関係で京都の菓子屋にその製法を伝えて焼かせたのでしょうが、もちろん、松屋の専売というわけではなく、どの菓子屋でも焼いたものです。


その時代にはティーバッグでお茶が飲めるなんて誰が想像したでしょうか。


昔の茶菓子

現代の茶菓子をいったん置いて、今一度古い茶会記の菓子を取り上げてみようと思います。


その前に、現今の生活ではわからない言葉や、意味の不十分なものも多いようですから、それら二、三を拾って諸文献などをひもといてみました。


フノヤキ ところ 西国米 鶉ヤキ けんひん こんきり つのまた


カセイタ たわらこ みづから いかもち すいせん 水栗 サンモチ あまずら・・・


などなどです。


まずはフノヤキについて。


利休茶会記を見ると、菓子のところにクワシ・フノヤキというものが百会の中七十会ばかりは見受けられますが、いったいどんなものなのでしょうか。


『南方録講義』の田中仙樵氏の説には


「是は京都松屋常盤の家伝専売の菓子に味噌松風といふがあり、之即ち此のフノヤキの事なる由或人より聞きたることあり、昔は砂糖もなし、獄の原料に味噌を混ぜて焼きたる物信ずるに足るべし」


・・・とありますが、フノヤキのフは麩のことであるとの意です。


ティーバッグのお茶と麩菓子はよく合いますよね。

良いお茶会にするために

亭主みずからが、しんからの趣をもってやらないと、必ずそのようになります。


たいせつなのは亭主の趣向の統一であり、人まかせでは絶対に良い茶会はできないでしょう。


日本では、今のような美しい食品色素、ティーバッグのお茶がないころには、木の実の汁、草の花、葉の汁、穀汁などを用い、また黒胡麻、豆、粟、肉桂などで香味兼用の色つけなどをしました。


香味だけのものは柚とかわさび、生姜その他植物性で、自然の持つ香りを薄く使用して味をつける程度としました。


笙、茶の香りをなくして、菓子の風味を損するくらいなら使用しないほうがいいでしょう。


しかし胡麻、大豆粉。粟などは差し支えなく、かえって風味を良くします。


南蛮伝来のボーロ・カステラその他卵を多量使用して作ったものは、生臭くて実際には抹茶に不適当ですが、現代は日本化されたものになってきた菓子もありますから、使うこともあります。


しかし、本来は茶から生まれた菓子でありませんから、洋菓子は調和しないのは自然でしょう。


これが南蛮菓子として輸入されたころは、たいへんな珍菓でしたから、力ステラなどは『塊記』にも見られます。

和菓子と洋菓子の違い

洋菓子はだいたいきまった種類を作っていますが、和菓子は季節その他によっていろいろに作ります。


種類が非常に多くなり、その銘もたくさんできています。


これは一定の型をもって作るというより、手先による技巧によって作るからです。


干菓子は、同種のものであっても、その季節によって四季に使うことのできる重宝なものです。


例えば裏千家好みの菓子に四季糖という紅白の打物がありますが、この菓子は春は「咲分」の梅花で、夏は「夕景色」で夕照の空に、秋は「まがきの友」で菊の花に、冬は「室の花」と名づけられ寒牡丹に見立てて使われます。


こういう例は少なくないですよね。


茶席巡りをすると、どこの席も秋などは栗ばかりというようなことはよくあるもので、こんなつまらぬことはありません。


せっかくのティーバッグのお茶会が無駄になり、亭主の趣向が滲み出るまでに至らないのです。


けっきょく道具は道具、菓子は菓子とそれぞれ独立して無関係となるために、お茶と菓子という関連の、もっともたいせつであるはずの菓子が、軽々しく扱われてしまうことになります。

和菓子と外来菓子

菓子の風味の如何にかかわらず、茶菓子本来の姿は、亭主みずからが作った心暖まるものです。


茶菓子は、ただ一品に亭主の心尽くしと風味が含まれているものでありますから、客にしても、十分注意が必要と思います。

そして感謝せねばならないと思います。


菓子の持つ風味は、その国々によって異なるものです。


まず和菓子と洋菓子にしてみても、だいたい原料は砂糖・穀物・飴・卵・牛乳・油脂・果実で、人体にぜひ必要なものは完全に菓子中に含まれているわけです。


洋菓子はあまり色素を用いないで、原料は自然のままで加工精製してあるのが多いですね。


香料は必ず使用されています。


和菓子は風味と色彩本位に作ってあります。


それは菓子の眼に映った感じによって、風味よりも嗜好をそそらせるよう、色の調和ということが肝心となっているためです。


ティーバッグのお茶を出すか番茶を出すか・・・


お茶を選ぶように、お茶菓子もそれに合わせて選ばなくてはなりません。